モルト博士の鍵盤遊戯学

モルト博士の鍵盤遊戯学
ふたりの先生~
藤原義久と三枝成彰(上)

 

学習院中等科のとき、藤原義久という音楽の先生とめぐりあった。この藤原先生が、かなりアブナイ人だった。
 音楽の授業中にいきなり
 「キミキミ、難波君。君はSFが好きなんだって?」
 他の先生のように、その質問の中に僕を難じているニュアンスはない。むしろ親しみを感じた。
 何しろ今から38年前の話である。今なら授業中にSFやロックの話をする先生は沢山いそうだが、あの頃SFに対する一般のイメージは決して良くなく、とくに学校の先生には受けが悪かった。SFばかり読まないで、もっとちゃんとした本を読め、なんてよく叱られたものだ。
 今ではちょっとヘンな本を読むのがオシャレとされ、SFすらフツーの本になってしまった。(今でも学校の先生は、もっとフツーの本を読め、と生徒を叱っているのだろうか?)
 「僕はね、ブラッドベリとか、ハインラインが好きでね。」
 もちろん当時SFはド・マイナーな存在だったから、こんな作家の名前を出したところで、誰も知らない。ポカンとする他の生徒たちにおかまいなく、藤原先生は平気でSFの話を(授業中に)するのである。
 当然、先生とは親しくなった。
 そして、色々話をしているうちに、先生が以前「SFマガジン」に紹介されたことを知る。
 ハインラインの名作短篇「地球の緑の丘」(長らく絶版となっていたが、先ごろようやく文庫化された)を、エスペラントによる混声合唱とオーケストラのための組曲にした若き現代音楽作曲家がいる・・・というその紹介文を書いた人は、野田昌宏。スペース・オペラの翻訳や創作で有名なNASAフリーク。あだ名を宇宙大元帥という。なんと、ふたりは学習院の同級生だったのである。つまり、僕の大先輩にあたるわけだ。
 ちなみに学習院出身のゲーノー人や文化人はきわめて少なく、ケーオーやアオガクに比べるとこのギョーカイ内における存在はかなり地味である。三島由紀夫、田宮二郎、都倉俊一、仲本工事、岩城宏之、田原俊彦の作詞者である宮下智、風の谷のナウシカの作者宮崎駿、アレンジャー/プロデューサーの志熊研三など、数えるほどしかいない。閑話休題。
 
 今でもよく覚えているのだが、ある日先生と一緒に、今はなき銀座の超ワイド・スクリーンのテアトル東京へ「2001年宇宙の旅」を見に行った。そのときのふたりの会話は、こんなふうだった。
 「タイトルはやっぱり原題のとおり、スペース・オデッセイとするべきですよねえ。」
 「まったくだね。」
 (館内に入って)
 「うわぁ、親子連ればかりですね。」
 「何を勘違いしたか、文部省が推薦したからね。」
 「でも、本当に大丈夫ですかね?」
 「さあね。そればっかりは、始まってみないことには、わからないねえ。」
 ふたりは、この映画がちゃんとしたSFになっているかどうかを心配していた。B級SF映画が世にあふれているために、SFのイメージが幼稚なものになってしまう、と当時のSFファンは~僕を含めて~本気で嘆いていたのだ。まさかB級SF映画のビデオでみんなが笑いころげるような時代が来るとは、SFファンでさえ予想もしていなかったのだ。しかし、映画のイントロを見ただけでその心配は吹き飛び、ふたりとも大興奮!!
 「わあ、これはキミ、大丈夫どころか。」
 「凄いですね。やった!やった!」
 映画の途中で退屈したのか、見に来ていたガキ共がモノリスを指さし「お父ちゃん、あれナアニ?」とか、「つまんないよう。悪者とか怪獣出ないの?」などと言い出す。親たちも初めて本格SF映画に接し、答えられなくて当惑、絶句する。
 「きっとただの宇宙冒険ものかなんかだと思って見に来たんだろうね・・・。」
 しかし、我ながらよく覚えているもんだ。
 藤原先生とはそののちも、ちょっとエッチな「バーバレラ」を見に行ったりしている。なかなかアブナイ先生でしょ? “女たらし”のロジェ・バディム作品で、まだ社会派になる前のジェーン・フォンダが主演。スペース・オペラのパロディがいたるところに出てくる楽しい映画だった。ちなみにデュラン・デュランというのは、この映画に出てくる筋肉マンのような鳥人である。
 高校・大学と、自然、先生とは疎遠になっていたが、ミュージシャンになろうかどうしようかで迷い、悩み、不安になっていたときに、先生から仕事をいただいた。これが僕の初めてのスタジオ・ワークだった。
 モノはフジテレビの「ひらけ!ポンキッキ」、あちらの「セサミ・ストリート」に勝るとも劣らないユニークな幼児番組である。藤原先生はこの番組のために「宇宙船地球号」という曲を書かれた。そのレコーディングに出始めたばかりの国産シンセサイザー(もちろんまだアナログのモノフォニックしかない)を使ってみたいから、ついては楽器を持ってスタジオに来てくれないか、ということだった。
 山手線に乗って、えっちらおっちらシンセのケースをブラ下げて、恐る恐るスタジオに着いた。まわりはこわそうなスタジオ・ミュージシャン、クラシックのオーケストラのおじさん、おばさんたちばかりで、小さくなってシンセをセットしたものだ。フン、こんな電気楽器、ニセモノのくせに・・・といった反撥をチクチクと感じた。
 ひどく緊張してレコーディングを終えた。
 結果は上々だった。
 「キミキミ、ミュージシャンになって大丈夫。僕が保証するよ。」
 先生の一言でやっと少し自信がついた。
 生まれて初めてギャラなるものをもらった。
 楽器使用料のほうが、僕の演奏料よりも高かった。
 今は昔のお話である。


モルト博士の鍵盤遊戯学
ふたりの先生~
藤原義久と三枝成彰(下)

 

 三枝成彰さんは、今を去ること30年前、僕のキーボード・プレイを初めて褒めてくれた人である。
 30年前といえば、僕は金子マリ&バックス・バニーでデビューしたばかりのホヤホヤの新人ミュージシャンだった。日本のロック・シーンが盛りあがり、 新宿ロフト、屋根裏、大阪バーボン・ハウスといったライブハウスが次々と誕 生していた時期である。
 バックス・バニーはプログレ・バンドではなく、R&Bやハード・ロック、ファンク色が強かった。
 その影響で、色んなミュージシャンとよくセッションをした。ジョニー吉長 (ピンククラウド)、加納秀人(外道)、ロミー木下(竜童組)、カルメン・マキ etc.etc.
 学生時代にプログレばかり聴き、やっていた僕にとっては、毎日が新しい出会いと発見だった。
 とくに、関西系のミュージシャンが強力だった。とにかく、プレイがファンキーなのだ。何が何でも客を乗せたるでェ、というド根性があって、泥臭すぎて鼻につくときもあったが、本当にエンタティナーぞろいだった。
 やっぱプログレ育ちだとついて行けないものがあるなあ、と、僕は強いコンプレックスを感じた。おまけに面と向かって「君のプレイはキレイ過ぎる。もっと大阪のミュージシャンみたいに汚れなきゃ」なんていう業界人もいて、あのままだったら僕は暗いキーボード・プレイヤーになっていたかもしれない。
 関西ミュージシャンたちが好む黒人音楽を聴いていなかったわけではない。 むしろ大好きだった。レイ・チャールス、レス・マッキャン、ビリー・プレス トン、スライ&ファミリー・ストーンなどに熱狂したが、しかし逆立ちしてもあの味は出せるものではない。
 色んな音楽のやり方があっていいんじゃないか、と僕はどこかで開き直っていた。

 そんなとき、NHK銀河テレビ小説の主題歌のレコーディングの仕事が舞い込んできた。前回書いた「ひらけ!ポンキッキ」に次ぐやっと2本目のスタジオの仕事だった。
 作曲は三枝成彰、歌手はいしだあゆみ、ギターは伊藤銀次だった。
 このとき「君のプレイはとても品がいい。初めて僕好みのキーボード・プレイヤーに出会った」としきりに感激して下さったのが、作曲の三枝さんだった。
 初めて僕のプレイを褒めてくれる人がいた!
 嬉しかった。
 そうか、品がいいのか。
 変な話だけど、それまでけなされていた自分のスタイルがひょっとしたら逆に自分の“売り”になるのかもしれないぞ、という自信が初めて湧いた。
 ところが、この三枝さんとの出会い、なかなか曲者だった。
 僕にプログレがあるように、色々なことをやっていても三枝成彰本来の姿は現代音楽であり、クラシックである。だからたとえ純音楽でないものをやっても、そこに三枝さん独自の芸術観というか、強固なスタイルが顕れてしまうの だ。
 ありていに言えば、とにかく譜面が難しい。プレイヤー泣かせではちょっと右に出る者がいないのではないか。N響や読響の人ですら、あまりの無理難題の連続に怒って帰ってしまった、というエピソードがある。
 僕も幾たびか、こんなの弾けませんと抗議したが、不思議と喧嘩になったことは一度もない。やはりどこかで非常にウマが合うのだと思う。
 テレビでいつもニコニコ笑っているあの顔、あればかりが三枝さんではない。実は頑固で短気、未だに芸大の学生気分が抜けきっていない。それがまたあの若さにもつながっているのだろうが、とにかく喧嘩っぱやい。困ることも多いが、いつまでも人間が丸くなってしまわないところがいかにも三枝さんらしくて、僕は好きだ。

 意気投合して以来30年、三枝さんの作曲するもののほとんどを弾いていた時期がある。エピソードにも事欠かない。
 メディアというイベントを、つま恋やユネスコ村で、三枝さんが主催したことがある。現代音楽とロック、ニュー・ミュージックのジョイントという、当時としてはなかなか風変わりなものだったが、パフォーマンス・ブームを先取りしすぎて、ちと時期尚早、赤字に終わって三枝さんはヒイヒイ言っていた。 三枝さんの、金がなくてもメゲない物凄いバイタリティには、しかし、圧倒される。車を売り、家を売り、頑張って借金を返してしまった。
 三宅一生のファッション・ショーで、モデルと同じ服を着せられて演奏したこともある。モデルには似合うが、僕のような胴長短足人間には着こなせなくて閉口した。
 ラジェーション・ミサというイベントがあって、このレコーディングは凄か った。向谷実、中村哲、倉田信雄と僕の4人のキーボード・プレイヤーが集まって、三枝さんオリジナルのミサ曲をやることになった。ところが例によって例のごとしの変拍子と臨時記号と32分音符の洪水。レコーディングの合間に4人で酒を飲みに行って総決起集会を開き抵抗したが、結局はやらされた。酔っ払って吐きながら弾いている奴もいたという、前代未聞の録音だった。
 まあ色々なことがあったけれど、とにかく三枝さんのあのお褒めの言葉と、 山下達郎の「君はプログレをやるっきゃないよ」の一言がなかったら、僕はいつまでたっても良い意味で開き直れぬままでいたかもしれない。
 本当は、感謝しているのだ。

 人間の一生には、いくつかのキー・ワードがあると僕は思う。
 そのキー・ワードを自分で見つけられるかどうかは、運だ。
 僕のように人から何の気なしに投げかけられた言葉がきっかけとなってふっ切れる、というお調子者もいる。
 このふたりには足を向けて寝られないな、という古典的な感覚を、これからも大事にしていこうと思っている。