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難波弘之そのSFと音楽
巽孝之(SF 批評家、慶應義塾大学文学部教授)


 初めて難波弘之という名前を目にしたのは、忘れもしない1968年4月のことである。わたしが学習院中等科に入学した当初、全校生徒の優秀な作文を集める文芸部発行の雑誌『からまつ』最新号(第23号)に、当時中学3年生で文芸部主将だった難波弘之が、SFの楽しさを熱っぽく語り、敬愛する海外作家たちのプロフィルを語るロング・エッセイ「SFカーニバル」を発表していたのだった。いまでも難波弘之の文章の読みやすさは定評があるが、このエッセイにしても、少なくともそれまで漠然とSFを愛好していたひとりの少年読者すなわちわたしを、より深いSFの道へ引きずり込むに充分な啓蒙的役割を、まずは十全に演じていた。

 初めて話をしたのは、同年の11月に、難波弘之が「青銅色の死」なる短編SFで、学習院の元院長であった安部能成にちなむ安部能成賞を受賞した直後のことである。これは初等科から大学まで一貫教育を行う学習院関係者全体を対象にした賞であるから、並いる大学生の応募者を尻目に、中学三年生が堂々受賞作に輝いたのは記念すべき出来事だった。受賞の言葉では安部公房への敬愛が語られたが、その作品の方は殺人サイボーグの自走を扱い、当時であれば光瀬龍を、いまなら『ターミネーター』を思わせる設定で、核戦争の顛末を叙情豊かに物語るものだった。これをもって、恐るべき子供・難波弘之はSF作家として正式デビューを飾ったといってよい。しかも彼は、中等科文化祭において、文芸部のセクションにてSFの展示を行い、そこでおそらく難波弘之自身が編集長を務めたものとしてはいまにいたるも唯一無二と思われる謄写版印刷のSF同人誌<太陽の神>を発行したのだ。

 この時、文芸部の展示を訪れたわたしに、彼は柴野拓美氏の主宰する科学創作クラブ<宇宙塵>および彼本人が代表を務める<全日本青少年SFターミナル>への入会を勧めている。SFファンは仲間を求め増やしたがるものだが、彼は当時、すでにして日本SF大会にも参加し、SFファンダムにも頻繁に出入りするアクティ・ファンのひとりだった。そのような社交性から、のちの労作「青少年ファン活動小史」(<宇宙塵>168&170-173号、1972-73年)がもたらされてといっても過言ではない。そして、この時の出会いがなければ、以後、わたし自身がSF界に関わることも、中学2年の終わり、1970年1月に自分自身のSF同人誌<科学魔界>を創刊することもなかったろう。

 難波弘之が音楽活動もやっているということを知るのは、さらにそのあとのことである。年譜によれば、すでに1969年の学習院高等科入学時からジャズ系およびロック系の二種類のアマチュア・バンドに関わっていたというが、わたしが最初に彼のライヴを見たのは、1971年の学習院高等科祭の時で、この折に彼は、「ピースフル・バンド」(のちのラ・ヴォーグ)というコンボでセミプロはだしの正統的なジャズを演奏していた。彼がクラシックの声楽家とジャズ・オルガニストの父母をもつのを知ったのも、このころのことである。また、1971年の夏にはわたしの<科学魔界>31号に「エマーソン・レイク&パーマーに」という献辞をもつ短篇SF「飛行船の上のシンセサイザー弾き」を発表、これはのちの1982年、加筆改稿を経た上で同題の短編集にも収められ、同題のアルバムにも結実していく。さらに大学時代には、当時最盛期だったエマーソン・レイク・アンド・パーマーやPFM、フォーカスなどの曲を中心にしたプログレッシヴ・ロック・バンド「愛の三色すみれ」を結成し、ここでの活動がのちに彼が金子マリとバックス・バニー加入(1975年)とともにプロ入りのきっかけとなり、かつ、1979年のソロ・アルバム『センス・オヴ・ワンダー』を経て今日のユニット「センス・オヴ・ワンダー」(1981年ム)の原型となった。

 難波弘之のSF音楽はじつに多岐にわたり、その演奏技術の高さは他の追随を許さないが、しかし作曲上最大の特色があるとすれば、グループサウンズの中でもタイガースの「廃墟の鳩」など、SF的コンセプトをもつポップソングにまんべんなく影響を受けていることだろう。最も日本的なグループサウンズと最も西欧的なプログレッシヴ・ロックの融合したところに、SF音楽家として、または音楽SF作家としての難波弘之最大の独自性がひそんでいる。(2000年8月23日)

 

難波弘之さんとわたし
柴野拓美


 先日久しぶりに難波さんのキーボードを聴く機会があった。今年の日本SF大会のプログラムのひとつに彼の演奏会が組まれていたからである。おかげで本当に何年かぶりかに、LPやCDでは味わえない全身にひびく生演奏の迫力にひたることができた。
 冒頭に流れた「メリーさんの仔山羊」のメロディーにいささかびっくりしたが、それがエジソンの故事にちなんで作曲された「ハロー・トーマス」という曲であることを、途中の難波さんの解説で教えられた。今岡清さんのメロディーから編曲された「地球の緑の丘」はもちろんわたしもよく知っていた。そのあとににも聞き覚えがある曲が出てきたので、おやっと思っていると、隣の席にいた巽孝之さんが「“リングワールド”ですよ」と耳打ちしてくれた。わたしがその原作ーラリィ・ニヴン作のSF長編ーの翻訳者だったのでアルバムを頂戴し、何度か聞いていたのである。
 難波さんと初めてお会いしたのは、たしか彼がまだ中学1年だった1966年の暮れ頃だったか・・・わたしの主宰するSF同人誌「宇宙塵」に入会後まもなく拙宅へ遊びに見えたときのことである。その翌年、彼はサイボーグを扱ったSF短編「青銅色の死」で安倍能成文学賞(当時は小説の賞だった)を受賞し、演奏家となる前に、早熟の作家として名を馳せた。文筆における彼はSF短編集『飛行船の上のシンセサイザー弾き』(1982年)をとする数冊を出版しており、またこれよりさき「宇宙塵」に連載(1972~3年)した評論「青少年SFファン活動小史」は、当時の日本SF界の歩みを語るうえで欠かせない資料となっている。
 だからわたしはもっぱらSF仲間として彼とおつき合いしているわけで、演奏家としての彼を語る資格はないが、先日のその生演奏や、その翌日のパネルの席で、文字どおり紅顔の美少年だった彼のイメージがちっとも変わっていないことを確認できたのは、この上ない喜びだった。
 これからも同じ若々しさで健闘をと、心から祈っている。(2000年8月20日)