幼少の頃

 僕は、父がアコーディオンとジャズオルガンの奏者、母が声楽家という、いわゆる音楽一家の環境に育ちました。

 父はたぶん、昭和30年頃、日本で初めて“ハモンド・オルガン”を個人で購入したのではないかと思います。というのは、僕の3才くらいの時の、ハモンドを弾いている写真があるのです。父も母ももう亡くなっているのですが、父の遺品整理をしていたら、“メンソレータム”という薬で有名だった、近江兄弟社の1957年のカレンダーが出てきました。当時、近江兄弟社はキリスト教の布教活動をやっていて、教会にパイプオルガンの代用として“ハモンド・オルガン”を広めようということで、輸入代理店をやっていたようなのです。そのカレンダーの1番上にハモンド・オルガンのBー3の写真があり、「ハモンド輸入総代理店」と書かれていたので分かったというわけです。

 母は、今はわりとポピュラーになったドビュッシーとかアーン、デュパルク、フォーレなどのフランス近代歌曲を歌っていました。それで母の伴奏をしていた人に付いて3歳のときからピアノを始めたのですが、何しろ昭和30年代ですから男の子がピアノを習うというのは非常に珍しいことだったので、とてもイヤでした。母が、クラシック至上主義だったので、歌謡曲を一切聴かない家でした。ですから当時流行っていた歌謡曲とか、ビートルズなども全く知らずに育ちました。学校で皆が「リンゴが好き」と言っているのを聴いて、ビートルズのメンバーのリンゴ・スターではなくて、果物の話だと思ったほど。

 そんな環境にあっても、当時大ヒットした曲はやっぱり僕の耳にも入ってきました。坂本九の「上を向いて歩こう」とか、美空ひばりとか…。母もこの両人は「うまいわね」と誉めていました。

 僕の家には当時、アメリカ軍の人が父にアコーディオンを習いに来たり、父がジョージ川口氏などと一緒に演奏していたので、よく電話がかかってきたり、ダークダックスや立川清登氏が母に声楽を習いに来たりしていました。ですからわりと音楽家の出入りのある、ちょっと変わった(恵まれた?)家庭だったと思います。でも僕自身、中学時代は音楽よりも、SFやミステリー、漫画など、今いわゆる“オタク”と呼ばれているものの、“元祖オタク”でした。今のコミケのはしりのような同人雑誌を作り、夢中になっていた、ファッション性ゼロの男の子でした。